夏休み、学生時代に訪ねた思い出深い函館に出かけた。
若い日、青森でねぶた祭を堪能し、そのまま青函連絡船に乗り込んで眠り、翌日は函館を観光して函館港まつりを堪能するという貧乏旅行だった。当時大きなリュックを背負った旅行者は「カニ族」などと呼ばれ、わたしも間違いなくその一人。その頃青森駅と函館駅はどちらもホームがとてつもなく長くて連絡線乗船口に繋がっていた。汽車を船に積み込むのだから当然だが。今はそんな函館駅もとても小さくてこぎれいになり昔の面影はまったく感じられない。もちろんカニ族も皆無。唯一摩周丸が当時の第2岸壁に係留してあって青函連絡船記念館として公開されていた。
懐かしくて懐かしくて、なんだかとても感傷的になって船内を歩いた。グリーン船室では洞爺丸事故の映像と解説のDVDが上映されていた。古いニュース映像も。衝撃的な内容。
函館山登山口に「青函連絡船海難者殉難碑」がある。戦時中殉職した青函連絡船職員の霊を慰め、後に洞爺丸台風での殉職者も合祀された。ここで慰霊を済ませるには気持ちが中途半端。最終日の予定を変更して、汽車を乗り継いで七重浜まで出かけた。そこに洞爺丸慰霊碑が、遭難した海に面して建てられているのだ。初めて知って、初めて訪ねた。1954年9月26日、台風15号により起こった、日本海難史上最悪の事故。死者・行方不明者はあわせて1155人に及ぶ大惨事が、七重浜の岸からわずか700メートルで起きたのだと知った。波音に混ざって殉難者の声が聞こえるような近さではないか。
洞爺丸にはA.R.ストーン宣教師が乗船していて遭難した。自分の救命胴衣を同船する若者に差し出して海に沈んだ人。彼は農村伝道神学校初代校長。それまでのわたしにとっては母校の歴史上の人物に過ぎなかったのだが、今回の旅でいきなり血の通った生きた一人の人として私の目の前に迫ってきたような気がした。
その受難日が26日だった。69周年になるわけだ。
2023
01Oct